沖縄の読谷村に位置して、周辺には残波ビーチ、渡具知ビーチという沖縄ならではの海景色やシュノーケリング、残波岬公演、米軍施設、図書館などがある、チビチリガマ。
そんなチビチリガマの場所や地図、心霊スポットについてまとめていきたいと思います。
日本一人口の多い村 ― 読谷村
チビチリガマは沖縄の本島西海岸に位置する読谷村にあります。
東シナ海にカギ状に突き出た半島で、東には緑の山並みが連なり、西は東シナ海に面し、南は比謝川を境として、北は景勝の地「残波岬」に囲まれた美しい自然と豊かな伝統文化に育まれた村です。
2014年1月1日に「日本一人口の多い村」として指定されたことでも有名です。
歴史の一頁として、悲しくも第二次世界大戦で米軍の上陸地点となり、空と海からの猛爆により焦土と化し、戦後の一時期は村域のほとんどが米軍基地として接収され、日本に復帰する(1972年)まで米軍統治下に置かれた村でもあります。
総人口 は1,342人、(前年比-16)、そのうち男性の人口は 20,487人(-12)、女性の人口は 20,855人(-4)、総世帯数は 15,997(+19)という村です。
(読谷村の村歌)
ガマの歴史
沖縄は太平洋戦争で日本で唯一、地上戦が行われた場所であります。
1945年4月1日、米軍が沖縄島西海岸に上陸すると、住民はガマ(自然壕)や亀甲墓などに身を隠しました。
読谷村波平区の住民の多くは、村内のチビチリガマとシムクガマに分かれて避難しました。
チビチリガマの由来は、
チビ=尻 チリ=切る
という言葉に由来しています。
チビチリガマは浅い谷の底にあり、谷川を流れる細い川はガマへ流れるが、どこへ流れ着くのか分からないという事からこの名が付きました。
住民が避難したガマの二つのうち、チビチリガマでは住民の「集団死」がおこり、もう一方シムクガマではこのような惨事はおこりませんでした。
この洞窟への避難者約140人の内、無辜(むこ)の住民83人が非業(ひごう)の最期(さいご)を遂げました。
後に人々は犠牲者の死を悼み、永久平和を祈念して「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」を建立しました。
チビチリガマへは立ち入れるのか?
※現在チビチリガマへの立ち入りは、遺族の会の遺志により禁止されています。
チビチリガマは、悲惨な集団自決の起きた場所ということで、現在は立ち入りを禁止されてます。
そんなチビチリガマですが、先日そこにある遺品や遺骨が荒らされるという被害がありました。
読谷村に住んでいる友人に聞いた話によると、チビチリガマは周辺住民が非常に大事にしているガマであるそうなので、今回のニュースは非常に残念なものといえます。
くれぐれもチビチリガマへの観光や、肝試しなどの目的での来訪はしないようにしましょう。
最後までお読みいただきありがとうございました。
